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第五話 薔薇と喜び

Author: 安井優
last update publish date: 2026-09-11 21:00:30

 それからの授業内容はあまり覚えていない。

 先生に教わって数学と理科の問題を解いていたはずだが、私はただ言われるがままに手を動かしていたようなものだった。

 先生も、そんな私の体たらくぶりに気づいたのだろう。

「お嬢さま」

 普段、私が問題を解いている最中に声をかけることなどしない先生が、いつもよりもはっきりとした声で私を呼んだ。

 ぼんやりと問題集を見つめていた私は戸惑いながらも手を止める。

 先生を困らせてしまったのではないか。先生を怒らせてしまったのではないか。がっかりさせてしまった? それとも……。

 先生のこととなると、途端に悲観的になってしまうのは悪い癖だ。

「お嬢さま、調子が優れないようでしたら今日は中止にしましょう」

 私が俯いたままでいると、先生の声音はいつもの穏やかなものになる。

「お嬢さまは普段からよく勉強なさっておられますし、多少休んでも問題はありませんよ」

「……平気よ」

「では、他に気がかりでも? たとえば、丸井さまのこととか」

 思わず先生を見つめてしまった。そんな風に踏み込んだ質問をされると思っていなかったし、そう思われているとすら想像していなかったから。

 ――違う。先生のことよ。

 口から本音が飛び出しそうになって、奥歯を噛みしめる。

 先生は私の反応を是ととったのか、なんとも複雑な面持ちで長椅子から立ち上がった。

 私の文机の隣へ立ったかと思うと、先生の手が私の背後へ回った。

 突然の接近に緊張で身を固めるも、その手が置かれたのは私の肩でも腰でもなく椅子の背もたれで、先生はそのまま私の座っていた椅子を回転させた。

 くるりと私の視界が回り、正面に先生の姿が飛び込んでくる。

「思っていることは、お伝えになられたほうがよろしいかと」

 思いのほか真剣な面持ちに息が詰まった。

 まるで自分の気持ちを見透かされているような心地だ。

 夜のように冴え冴えとした美しさに満ちた瞳から目を逸らすことができない。

「……先生にも、ご経験が?」

 たとえば、好きな人に想いを告げられぬまま離別してしまったことが。

 飲み込んだ言葉が届いたのだろうか、先生は目を眇める。私の質問が気に障ったというよりも、難問を突き付けられたかのような反応だった。

 意地が悪いと自分でも思う。先生は自分の過去を語りたがらない。自分のことを話すことすらしない。今の質問は、その領域に踏み込むものだ。簡単に。土足で。

 先生はしばらく口を堅く閉ざしたままだったが、私の凝視に耐えられなかったらしい。やがて、先生の三日月のように整った唇が重々しく開かれた。

「ええ」

 静かに一度首を振るだけの短い肯定。だが、声音も動作も表情もすべて、その一瞬の時間に凝縮しえる限りの···が含まれていた。情感とでも言おうか。的確に表せる言葉は知らないが、こちらが反応に困るほどの思念めいたものが容易く私の胸を突く。

「……ごめんなさい」

 私がそう謝罪を口にした頃には、「いえ」と答える先生の口調はいつもの優しいものに戻っていた。

「こちらこそ、立ち入ったことを。失礼しました」

 先生の瞳が切なく揺れる。

 雨で湿気を帯びた空気が初夏の風にかき混ぜられてやんわりと曖昧になっていくように、私と先生の間に現れた刹那の歪が消えていく。

 そのことが少しだけ惜しかった。

 私は胸中に思いを抱いて、作り笑いを浮かべる。先生への合図だ。祈りにも似た願いでもある。

 いつもの私たちに戻りましょう。先生と、生徒の私たちに。

「私が集中できていなかったのは本当のことだもの。先生からいただいた本のことを考えていたの」

 私は先生からいただいた英語の本を手に取って胸の前に掲げる。咄嗟に思いついた嘘にしては上出来だと自分を褒めてやりたい。

 先生もそんな私を見て、いつもの先生然とした笑みを見せた。

「そんなに気に入っていただけましたか」

「ええ。とっても。でも、気に入ったから考えていたってだけじゃないわ。一つ、問題があると思うの」

「問題?」

 分厚い本を適当に開いて見せる。書かれているのは当然英語。授業で英語を始めたばかりとはいえ、知らない単語ばかり。

「私、英語の辞書を持っていないわ」

 残念ながら、今日の寝物語にとはいかない。英語の教科書はあるが、この物語を読み解くには不足しているだろう。

 私が外国語教師の真似をして肩をすくめると、先生もまた肩をすくめる。

「なるほど。それは大問題ですね。次回、必ず僕の辞書をお持ちしましょう」

「でも、しばらく借りることになってしまうわ。先生のお仕事に支障はなくて?」

「僕は新しいのを買えば良いことです。知人もおりますし、当てはあります」

 先生の辞書をいただけるなんてこのうえない幸運だ。だが、先生の懐を痛めてしまうことは本望ではないし、先生に迷惑をかけることも避けたい。

 その時、私は閃いた。

「そうだわ! 先生、私、自分用の辞書を買うことにする!」

「え?」

「だって、きっとこれからも使うでしょう? 蘭語の辞書もちょうど欲しいと思っていたの。お父さまにお願いすれば、きっと便宜を図ってくださるでしょうし」

 なにより、これを口実に先生を休日誘うこともできる。辞書選びに付き合って欲しいと生徒から頼まれて断るような人ではない。

 それは、単純な欲求でもあった。

 ――もっと先生を知りたい。

 私の本能が、先ほど先生が見せたあの一面を、初めて目にした···········を、もっと見たいと切望している。

 そのために、私の思考回路は今とてつもない速さで電気信号を走らせていた。

「ねえ、先生のご予定を聞かせて。一緒に辞書を選んで欲しいの」

 こんな時ばかり、生徒で良かった、子供で良かったと思ってしまう浅慮な自分に苦笑しつつ、私はあえて先生に期待を込めた目を向ける。

 無邪気であればあるほど、きっと先生は応えてくださるだろうから。

「ね? いいでしょう?」

「……わかりました」

 一押しすれば、先生が呆れたような、けれどどこか慈愛のこもった表情で頷いた。赤子の我儘を聞き入れる大人と同じだ。

「早いほうが良いでしょう。今週末はいかがですか? お嬢さまがよろしければ、昼前にお迎えに上がりましょう」

「いいの?」

「ええ、かまいませんよ。ただし、ご両親と丸井さまにきちんと許可を得てください。美人局つつもたせにはあいたくありませんからね」

 私がすぐさま「そんなことしないわ!」と反論すれば、先生は今日初めて少年のような笑い声を上げる。

 私も先生につられて自然と笑みが零れた。作戦が成功したことも、週末にはもう先生と出かけられる事実も、喜びとなって一緒に弾けた。

 ひとしきり笑っていると、先生が壁にかけられた時計を見やる。

「……おや、もうこんな時間ですね。今日は少し雑談をしすぎました。申し訳ありません」

「そんなことないわ。すごく楽しかったし、週末が楽しみ。先生、ありがとう」

 先生を見送って、私は一人部屋に戻ると、机に置かれた本を胸元へ引き寄せる。

 瑞希くんへの愚痴も、先生に傷つけられたことも、なにもかもがどうでもよくなるほど、私は幸せを抱きしめていた。

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